「特撮映像館」、今回は「VSシリーズ」について考察してみます。

’84年『ゴジラ』から『ゴジラVSデストロイア』までの「VSシリーズ」について考えてみたい。


「昭和ゴジラシリーズ」の後半で低年齢層向けの作品になってしまったシリーズを、大人の鑑賞にも耐えるものとして再スタートしたのが「VSシリーズ」の基本だと思う。またスタッフ的にも「昭和ゴジラシリーズ」で育った若い世代が参加し、「新しいゴジラ」を創出したのも事実だと思う。とはいえ「昭和ゴジラシリーズ」で育ったスタッフによる制作だったがために、はじめにバトルありきの展開になってしまったのではないかという気がしないでもない。

また「VSシリーズ」では薩摩剣八郎氏がゴジラのスーツアクターとして演じていたわけだが、これは薩摩以外にも、特技監督の演出、造形などいろいろな要因があるとしても、恐竜や爬虫類よりは人間に近いアクションも「昭和ゴジラシリーズ」から抜け出せなかったのではないかと思う。本シリーズの特徴として、シリーズを通して連続したドラマというつながりが挙げられるだろう。小高恵美が演じた三枝美希など、シリーズを通して同じキャラクターが登場することでもそれは顕著ではある(「昭和ゴジラシリーズ」では同じ俳優が出演しても役柄は全く別だった)。それもあってか、ゴジラの造形も「昭和ゴジラシリーズ」のような作品ごとのバラつきは少ない。
「昭和ゴジラシリーズ」では人類の味方としてヒーロー的な存在になってしまったゴジラも、この「VSシリーズ」では終始人類の驚異、敵としてあり「怖いゴジラ」像が追求された。そして対ゴジラ兵器が開発されるという展開になるわけだが、シリーズ化したことでゴジラを殺すことができなくなってしまった。結果として生物を超えた生物というような「特別な存在」になってしまうわけである。

もちろんゴジラに対して感じる印象や期待としてその方向自体は間違っていないとは思うが、古生代の生物が核実験の影響で目覚め、核のエネルギーを浴びて変異した、という出発点に立ってみれば飛躍しすぎてしまった感は否めないように思う。シリーズを観ながら、期待していたゴジラから離れていくような気持ちになっていったのは、まさにこの点だったのだろう。スタッフもそれはわかっていたのか、最後には自滅という形でゴジラの最後を描くことになる。強すぎるゴジラは人類には倒せなかったわけである。

ハリウッド版『ゴジラ』のためにシリーズが終了しなければ、さらに何作か作られていたとは思うが(実際『モスラ』三部作が制作されてもいる)、ドラマとしてはしおどきだったようにも思う。強いて言えばゴジラと三枝美希の関わりをもう少し見たかったというところだが。

批判めいたことばかりを並べ立ててしまったが、まがりなりにも「VSシリーズ」として毎年制作・公開されたことで怪獣映画の復権という功績はあったと思うし、ガメラの復活、「ウルトラマンシリーズ」の復活にも影響を与えたととられることもできるだろう。

(文:猫目ユウ)