かつて多くの文豪が利用した東京・本郷の旅館街。その中で今も残る鳳明館(ほうめいかん)で、大作家になったつもりで「缶詰」体験ができる「文豪缶詰プラン」が2020年3月に実施されました。どんな体験ができるのか、実際に宿泊してみた様子をお届けします。

 明治時代に東京帝国大学(東京大学の前身)が開設されたことをきっかけに、全国から集まる学生相手の下宿が数多くできた本郷。同時に、多くの文豪も居を構え、また缶詰になって執筆に励んだ旅館も多く、かつては「本郷旅館街」を形成していました。

 しかし時代は変わり、最盛期には100軒あまりの旅館が建ち並んだ本郷も、今では2軒を残すのみ。しかも現在は都市計画の変更により、本郷で新たな宿泊施設を開業することはできず、明治時代から続いてきた「文学の町」の記憶も風前の灯です。

 そんな中、本郷に残る日本旅館「鳳明館」を舞台に、文学の町・本郷の雰囲気を多くの人に伝え、かつて文豪が編集者によって缶詰にされ、作品執筆に励んだ様子を体験してもらおうと「文豪缶詰プラン」という、イベント付き宿泊プランが企画されました。発表直後から話題となり、3月24日からのプラン(1泊2日/2泊3日)と3月28日からのプラン(1泊2日/2泊3日)は即日完売となりました。

 風情豊かな日本旅館に宿泊し、編集者にせっつかれながら作品制作に励めるという「文豪缶詰プラン」。実際にどんな雰囲気になるのか、一般のお客さんと同様に宿泊代を支払い、体験してみることにしました。

 鳳明館は国の登録有形文化財になっている本館のほか、台町別館、森川別館という3つの建物があります。今回「文豪缶詰プラン」に供されたのは、本館から離れた場所にある森川別館。建物全体が、このプラン用に用意されました。


 筆者が案内されたのは、10畳の「千歳」の間。1956(昭和31)年築という森川別館ですが、内装は先々代のご主人が丹念に収集した銘木が各所にあしらわれ、非常に風情のある建物です。



 案内された部屋の入り口には「咲村珠樹先生」と名前が掲げられ、いかにも缶詰にされる大作家な感じです。ちなみに、このプランでは作家が「缶詰」にされる体験を味わってもらうため、建物内に入ると翌朝のチェックアウトが済むまで外出は一切できません。座卓に用意されたお茶菓子は、近くの和菓子屋さんが夏目漱石の好物だった落花生を使って作っている求肥の「そうせき」というもの。


 館内には編集者役が常駐する「鳳明出版社編集部」が入り口近くに設けられ、客室にいる「先生」に対し、原稿の進捗状況を確認することになっています。

 筆者の場合、することは通常の仕事と同様、記事の執筆。しかしほかの宿泊者と違うのは、旅館での「編集者」役だけでなく、本物の編集長まで進捗状況を確認してくるということ。

 プランを予約した際、この事情を伝えたところ「私どもの『偽編集者』だけでなく、本物の編集者とダブルで詰められるなんて面白そうですね!」とノリノリの反応。……いや、こっちは全然面白くないんですけど……。

 部屋には文机のほか、事前に布団が敷いてあります。……無事に執筆を終え、ここでゆっくり寝られるのかなぁ……?


 館内を一通り見て回ったのち、さっそく当日の午前中に取材した分の記事執筆に取り掛かります。できれば往年の作家のように、原稿用紙を広げて万年筆で執筆したいものですが、記事が掲載されるのはネットニュースなので、モバイルノートPCを文机に載せてお仕事。

 この「文豪缶詰プラン」、宿泊者は様々な作品を制作するため、客室にこもっています。同人誌の原稿だったり、文学賞への応募作だったり……。ちょっと気分転換したい、といった時のために、館内にはサロンが設けられていました。


 記事の執筆にいそしんでいると、何やら廊下が騒がしくなりました。「先生。先生!いらっしゃるのは分かってるんです!」という女性の声。外をうかがうと、なにやら不穏な空気をまとった女性が、向かいの部屋に呼びかけています。

 実はこれ、プランのオプションで設定されている「浮気相手と本妻が鉢合わせ」というもの。今回、希望した宿泊者が女性だったため、宿泊者が編集長と不倫関係にあり、それを知った本妻が踏み込んでくる、という修羅場となりました。編集長と本妻を演じたのは、叶雄大さんと劇団肋骨蜜柑同好会の嶋谷佳恵さんです。

 夫の不倫相手である宿泊者に対し、凄みを感じさせる笑みをたたえながら自己紹介する本妻さん。編集部に詰めていた夫もあわてて駆け付けますが、本妻さんは構わず言葉を続けます。

 何も言わず、泰然自若とした宿泊者の態度が気に障ったか、本妻さんの言葉も丁寧ながら怒りに満ちたもの。「私ね、ぜーんぶ分かってるんですの。ウチの主人と先生とのこと」

 夫は「こんなところでやめなさい、先生も困ってるじゃないか」と、本妻さんをなだめようとしますが、怒りに満ちた本妻さんは収まりません。今度は夫である編集長を詰問しはじめます。

 私と先生のどちらを取るのか、という本妻さんの追及に、しどろもどろになる編集長。自分のしでかしたこととはいえ、気分は針のムシロといった様子。

 結局、缶詰になっているほかの先生方(宿泊者)の迷惑になるから……と、編集部の部屋に行き、ひざ詰めで話すことになったこの不倫騒動。のちほど旅館の方に聞いたところ「3000万の慰謝料で和解した」とのこと。不倫の代償は高くついたようです。

 ひとまず、取材記事を仕上げた筆者。もちろん、書かなくてはならない記事はほかにもありますが、先ほどの不倫騒動を見ていたため、ちょっと普段よりは仕事が遅れ気味。そこへ部屋に備え付けられた電話が鳴りました。

 出てみると「鳳明出版ですが。先生、お仕事の進捗はいかがですか?」……ギクッ。「……あ、あぁ、ジュンチョウデスヨ……」「ほんとですか?ちゃんと書いてもらわないと、こちらとしても困るんで。また後でうかがいますね」との言葉で電話が切れました。

 この様子を編集部のグループチャットで報告すると、本物の編集長は「こっちがせっつかなくても、旅館の方で進捗確認して進行が管理されるから楽だなぁ」という返答。いやいや、閉じ込められてる身にしてみれば、全然楽じゃないですってば。

 夜も更けてきました。ちょっと玄関の方へ行ってみると、ロビーで「鳳明出版社」の編集者が打ち合せ中。ちゃんと社名入りの封筒まで用意されていて、ほんとに出版社っぽいですね。


 廊下には「編集者ガチャ」なるものも設置されていました。ためしに回してみると、出てきたカプセルの中には編集者、山本さんからのメッセージが。「先生が苦しんでいる顔はこれ以上見たくないんです。だから、早く終わらせましょう!」


 ちょっと小腹がすいてきて、軽く何かつまみたい気分に。通常の仕事であれば、常備してあるお菓子などを食べることができますが、ここは旅館の部屋。そんなものはありません。

 近くにコンビニがあったことを思い出したのですが、玄関ロビーでは編集者が打ち合わせ中で、こっそり外に出ることはできません。幸い、道路に面した部屋だったので、窓からちょっと出てみようかな……と窓を開けてみると。

 ……いた。編集者が2人も待ち構えていて、部屋を見張られていたのです。しかも無言で「逃げないでくださいね?」というパネルを示しています。

 うわぁ……と思っていると、続いて「原稿まだですか?」のパネル。近所迷惑にならないよう、無言でパネルを示すもんだから、余計にプレッシャーが大きい……。

 しかたないので、先ほど進捗状況を確認してきた、館内の編集部に電話をかけ、何か食べるものはないかと聞いてみました。「後で何かお持ちしますね」と言われたのでしばらく待っていると、編集さんが差し入れを持ってきてくれました。

 新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため、マスク姿でやってきた女性編集者。そばとお菓子、そしてドリンク剤を持ってきてくれました。もちろん「進捗いかがですか?」と聞くのは忘れません。

 せっかくなので、執筆に行きづまり、苦悩する姿を撮ってもらいました。撮影しながら「いいですね!大先生って感じです」と声をかけてくれたのですが、優秀な編集者は作家をその気にさせる、とも言いますし、きっとヨイショしてくれたんだと思います……。

 朝食として用意されたのは、健康的な和風のメニュー。朱塗りのお膳で部屋に運ばれてきて、ここでも大作家気分が味わえました。

 当初予定していた記事の執筆をすべて終え、鳳明館を後にした筆者。筆者の場合、かつて雑誌の編集に携わっていたこともあり、実際に編集者の立場でヤキモキした経験もあるだけに、今回「編集者」の言動に昔を思い出す場面もありました。

 実際の編集者の場合、発売日から逆算されたデッドラインがあり、原稿が上がらないとページに穴が開くというプレッシャーに、胃がキリキリ痛むこともあるのですが、今回の「文豪缶詰プラン」は、かつての文人旅館の雰囲気を味わえるという貴重な経験になったと思います。また企画されることを願ってやみません。今度は仕事抜きで、ゆっくり泊まってみたい気もしますが……。この様子はTwitter「#文豪缶詰プラン」のハッシュタグで見ることもできます、

※建物篇は「東大前に残る文人旅館 鳳明館の建物を「文豪缶詰プラン」で堪能してみた」で紹介しています。
※取材に際しては、規定の宿泊料金を支払い、一般の宿泊客と同様に過ごしています。

取材協力:鳳明館

(取材・撮影:咲村珠樹)