F1などのレースをはじめ、世界中に熱狂的なファンをもつ自動車メーカーのフェラーリ。フェラーリブランドの自転車もありますが、フェラーリのF1エンジンを搭載したモーターボートが、世界で1隻だけ存在しているのをご存知でしょうか。ファンの間では知る人ぞ知る存在であるこのボートが、復活に向けてエンジンの修復を開始したというニュースが入ってきました。

 このフェラーリF1エンジンを搭載したモーターボートの名は「Arno(アルノ)XI」。アマチュアのボートレーサーであったイタリア人技術者、アキーレ・カストルディの「世界最速のモーターボートを作りたい」という情熱から1952年に誕生しました。ちなみにアキーレの従兄には、1934年に2019年現在も破られていない速度記録(平均時速709km)を樹立した世界最速の水上飛行機、マッキM.C.72を設計したマリオ・カストルディがいます。カストルディ家には、世界最速を目指す遺伝子が組み込まれているのかもしれませんね。

 アキーレ・カストルディはボートの艇体にティモッシ製のスリーポイント・ハイドロプレーン(平らな船底で水面を滑走するように走行するハイドロプレーン艇のうち、水面に接触する部分を3点のみとし抵抗を最小限化したタイプ)を選択。そしてパワーの源となるエンジンに、フェラーリ製F1エンジン、それも1951年第5戦のイギリスグランプリ(シルバーストン)で、ホセ・フロイラン・ゴンザレス(アルゼンチン)のドライブによりフェラーリがF1初勝利を挙げたマシン、フェラーリ375F1に搭載されたV型12気筒4500ccエンジンを選んだのです。

 もちろん、いきなりF1のエンジンが手に入るわけはありません。アキーレ・カストルディは知人のF1レーサー、アルベルト・アスカリ、ルイージ・ヴィロレージ(どちらも当時スクーデリア・フェラーリ)から紹介してもらい、フェラーリの総帥、エンツォ・フェラーリに接触。フェラーリのエンジンで世界最速に挑みたいというアキーレの熱意に応え、エンツォ・フェラーリは375F1のエンジン搭載を許可。そしてボートに「フェラーリ」の名を冠することも許したのです。ここに世界で唯一「フェラーリ」の名を持つボートが誕生したのでした。

 アルノXIに搭載されているフェラーリの排気量4500ccのV12エンジンは、エンジンブロックに「1952」の刻印がされた「タイプ375」と呼ばれる、1951年イギリスグランプリでフェラーリにF1初勝利をもたらしたマシンに搭載されていたのと同じもの。F1仕様とは違う1気筒あたり2本のスパークプラグを使うデュアル・マグネトーを採用し、2枚翅のスクリュープロペラを1万rpmで回すという性能を誇ります。

 当初はF1仕様と同じ350馬力で搭載されたのですが、試験走行といくつかのレースに出場後、時速100マイル(160km)以上の速度を安定して出せないことに気づいたエンツォ・フェラーリは、さらなる出力向上を指示。当時フェラーリのチーフエンジニアだったステファノ・メアッツアの助言により、燃料をメタノールに変更し、圧縮比を12:1に上げ、2基のスーパーチャージャーが追加された上、キャブレターも強力な4チョークのものに変更されました。これにより最高出力は、F1マシン搭載時の1.5倍近い502馬力へと大幅にパワーアップ。そして1953年10月15日、イタリアのイゼーオ湖でフェラーリ・アルノXIは、アキーレ・カストルディの操縦で平均時速242.708kmという、重量800kgクラスのモーターボートにおける世界最高速度記録を樹立します。この記録は2019年6月現在も破られていません。

 アルノXIは1953年から1970年にかけて、各地のレースで計43勝を挙げる活躍を見せたアルノXIですが、2012年にアメリカの実業家ミルトン・ヴェレット氏の所有となり、現在はマラネロのフェラーリ・ミュージアムに展示されています。このアルノXIを、まもなく迎える誕生70周年に合わせ、エンジンを動態復元しようというプロジェクトが始まりました。

 プロジェクトを担当する、フェラーリのレストア部門フェラーリ・クラシケのルイージノ・バープ氏は「これはフェラーリの歴史の中でも最も重要なエンジンのひとつです」と語ります。「私たちは貴重なフェラーリの数々をレストアしてきました。しかしそれは車のボディとエンジンに関してのことです。この1952年のエンジンは、非常にユニークな用途のために特別に手作りされたものであり、それをレストアするということは、フェラーリ本社の誰もが一生に一度のことだとワクワクしています」と、陸上ではなく水上を誰よりも早く走るために作られた、唯一無二のエンジンをレストアする興奮を抑えきれないようです。

 現在アルノXIを所有するミルトン・ヴェレット氏は「エンツォ・フェラーリ自身が設計や製造に関与したパーツを扱うというのは、フェラーリのトップ技術者が夢見てきたことでしょう。ユニークかつ、珍しいフェラーリをコレクションしてきた私にとって、F1マシン用エンジンを搭載したレース用ボートは何ものにも代えがたい存在です。しかもエンツォが個人的に関与し、それを動かすということは、モータースポーツに情熱を捧げる人であれば、死ぬ前に一度は経験してみたいことではないでしょうか。本当に特別なことです」と、今回の動態復元プロジェクトについて語っています。

 バープ氏は「エンジンのレストアが終わったら、1952年にカストルディと我々の創業者エンツォ・フェラーリがイグニッションキーを回したのと同じように、エンジンを始動させようと思っています」と語っています。フェラーリ・クラシケによると、レストア作業は秋にも完了するだろうとのこと。所有者のヴェレット氏はレストアが完了したこのフェラーリ・アルノXIを世界中のフェラーリファンが見られるよう、展示ツアーを計画しているそう。日本にもやってくるのを願いたいですね。

<出典・引用>
ミルトン・ヴェレット氏 プレスリリース
Image:PRNewsfoto/Milton Verret

(咲村珠樹)