自閉症、発達障害、アスペルガー、ADHD……。脳のメカニズムが大多数とは違う人たちは、その特性から様々な“診断”が下され、その診断名から、時には理解が得られたり、またレッテルを貼られたりする事があります。そんな、昔は広く一括りにされていた“自閉症”の中でも、広汎性発達障害(ASD)と注意欠陥・多動性障害(ADHD)と診断された子を持つ母親の視点で、「うちの子の場合」を書いてみたいと思います。

■ 自閉症→発達障害→???

 「自閉症」という言葉が出てきたのは昭和の頃。まだその深いところまでは研究がなされていなかった時代です。そして平成に入り、「自閉症スペクトラム障害」という、“一般的な脳の働きとは異なる性質を持つ”人たちが、その性質によって、“アスペルガー”“学習障害”“ADHD”などのさらに込み入った診断名を総称した概念に一括りに語られたり、それぞれの診断名で語られたりするようになりました。

 さて、筆者の娘たちの話に入ります。長女は8歳の時に、発達障害(アスペルガー症候群)と診断されました。が、本質はアスペルガーの傾向がある、さまざまな自閉症的傾向が入り乱れた状態である事が、成長とともに顕著になってきました。発達障害と診断されると、まずその特性ゆえに社会生活がし辛い状態に対し、特性ゆえの衝動性や感覚過敏などをやわらげる様な薬を処方されます。しかし、数種類ある薬は、長女には効果がなく、結局は副作用しか出ない状態だったので、服薬を始めて、薬も変えつつも2年程で薬をあきらめる事となりました。

 長女と2歳違いの次女も、同じく8歳の時にADHDと診断されました。不注意優勢型で、小学校に入って初めて、机の中のものが異様に整頓できない、プリント類を机の中にため込んでしまうなどの状態から診断されました。次女も、実はADHDと言われたものの、ほかの自閉症スペクトラムに当てはまる特性を持っています。そして、長女と同じく、薬を試しても効果がなかったために、今では投薬せずに様子を見ています。

■ 「保育園の頃は何も言われなかったのに……」母の戸惑い

 人生で初めての他者との集団生活になる、保育園という環境。その環境では二人とも特に何も言われる事はありませんでした。集団行動もでき、他の園児と遊んだり、友達関係を築いたり、先生の言う指示に従えてお遊戯の振り付けもばっちり。園のお遊戯会では、明らかに他の子と違った行動をしている子が目立っていた中で、二人の娘はそんな事もなく、行事ごとのダンスを楽しく踊ったり、運動会でも問題なく競技ができていました。

 しかし、小学校生活に入って、それぞれの隠れていたと思われる特性が出始めてきました。長女は、強い衝動性がでたり、気持ちのコントロールが難しくなったり。次女は、プリントをため込むばかりかランドセルに翌日使う教科書を入れる事すら上手くできなかったり。母である私は混乱しました。小学校って、そんなに難しい事だったっけ???当時はフルタイムで働いていたので、二人とも学童保育のお世話になっていました。保護者が主体となって運営する学童保育で、ベテランの指導員は子どもの心を良くつかみ、長女は学童での活動も活発にできていました。しかし、だんだんと長女の様子がおかしくなっていきます。1年の3学期、「長女ちゃん、学童への集団下校の時に列から離れて一人で興味があるほうにいってしまうみたい」という、学童仲間のママさんからの言葉に、最初は理解が追い付きませんでした。当時通わせていた学童保育は、6年生までが通えるところだったので、集団下校時に高学年が低学年と学童へ行く時に、長女の行動に手を焼いているという話でした。公園で遊んでいる時は、遊具の順番を守りつつも興味のあるほうに積極的に近づいたりしていたので、特別変に思う事もなかったのです。

 そして次女が学童に同じく通う頃には、自分の「嫌」という気持ちを上手く表現できずにその場で固まってしまい、何時間もその「嫌」にこだわり続けるという状態にもなってしまいました。本人にとって、なぜ「嫌」なのか、自分でも表現ができずに、どうしていいか分からなかった結果、何時間も固まるという事に繋がっていったのでしょう。そんな頃、学校と同じく学童に通っていた2学年上の男児にターゲットにされ、いじめられるという事態に。その男児も、衝動性が高く、自分が気に入らない事について片っ端から暴力という手段で気持ちを表す子どもだったようです。小学校でもたびたび他の児童に暴力を繰り返していたその男児は、保健室でしばしば気持ちを落ち着けるために休みに来ていた長女との衝突が他の児童に比べて、明らかに多かったようです。物理的な暴力とともに、呼び捨てで、「死ね、アホ」などの暴言も繰り返されてきました。結局、学童保育の指導員も親身になってくれたにもかかわらず、学童保育に行く事が怖くなってしまい、やめざるを得ない状態に追いやられたのです。

■ 鬱を発症した母が起こした事件、そして不登校

 そして、それまで集団登校できていた学校にも登校できない状態になりました。しばらくは、私がつきっきりで学校へ行ったのですが、このいじめの一件の後、それまでできていた学校生活が全くできない状態になってしまっていました。授業参観で積極的に手を挙げて発言していた長女の姿はそこになく、ただ教室ですわっているだけ。班行動にも加わろうとせず、ただそこに存在するだけでした。その変わりようを、私がどうやって受け入れたのか、実はこの頃以降の記憶があいまいになっています。

 覚えているのは、発達障害と診断されていた事で、情緒支援級がある学校に転校する手続きを取った事、転校当初は大暴れして先生に咬みつく行動もあった事、支援級の先生が長女の特性をよくみて、長女の分かりやすい方法で情緒の支援、学習の支援をしてくれた事。おかげで、長女は無事に支援級から普通級の子たちになじむ事ができ、修学旅行にも行け、卒業式にも出る事ができました。

 しかし……中学へ進学して1か月。何度も中学に上がる前に普通学級で進学するために中学とも面談を重ねてきたのですが、馴染む事ができなかったのか、不登校に。その頃、私は元夫が娘たちに対してあまりにも理解がなく、発達障害について何も知ろうとしなかった事を皮切りに、これまで溜まりに溜まっていた不満が爆発。別居から離婚へと動いていました。別居により長女と同じ小学校に転校となった次女を、同じく発達障害として情緒学級に入れるかどうか迷ったのですが、今まで普通級で特に大きな問題がないという事で、普通級に転入となりました。

 普通級に転入したものの、なかなか上手く馴染む事ができず、5年の野外学習は3日目のもうみんな揃って帰る、という数時間前に動けなくなり、私が高速道路を飛ばして迎えにいったりしました。その後も、時々学校に行っては行かなくなるの繰り返し。そして、6年に上がった5月、ある事件が起こりました。当時住んでいた場所は学校の目の前。登校できずにベッドから降りてこない次女を、男性教諭が迎えに行き、さらに次女をベッドから引きずり出したのです。この頃の私は、一人で発達障害の不登校、離婚問題と抱え込んでおり、近隣にもなかなかSOSが出せない状態。2年前にうつ病と診断されて抗うつ剤を飲みながら何とか仕事を探してやっとの思いで生活してました。不登校についても、どうしていいのか、何がベストなのか、自分では分からない状態。この一件が、次女の男性恐怖と人間不信の大きな一つの原因になってしまったのでした。私があの時先生を止めていたら、自宅に訪問しないで。っていえていれば……たらればを言っても遅いのですが、二人も不登校になって、自分自身が精神弱り切った状態で、正常な判断はできなくなっていました。

 そして私は、事件を起こしました。学校に行こうとしない長女と口論になり、暴言と暴力で対抗された私は、あろうことか、子どもに刃物を渡し「消えて欲しいというならあんたが私を消しなさい」と。私は子どもが通報した警察に、子どもたちとともに移送され、精神科に「措置入院」となる入院になりました。そして二人の娘は、児童相談所の保護施設へ。この騒ぎのあと、実母が300kmの距離を駆けつけて、私が借りている部屋にしばらくいてくれる事に。保護施設へ実母が手続きに行った後、長女は施設内で大暴れしたそうです。「何でうちに帰してくれないの」。これが切っ掛けとなって、長女は児童精神科のある病院に、ながらく入院する事となりました。実母は次女を預かり、私が入院中もなにくれと世話をしてくれました。

 約1か月の入院期間を経て、私は退院しました。反抗期に入った次女は実の祖母にも素直になれない態度を取り続け、相変わらず登校できない日々を送っていたので、必死に優良患者として早く帰れるよう努力したのです。

■ 「普通ってなんだろうね。うちって普通なんていないじゃん?」

 今でも、二人とも不登校。次女は6年という最後の最後まで、登校できないままでした。修学旅行はもちろん無理、卒業式にも出られなかったので、応接室で一人、校長先生から卒業証書を渡されたのでした。その間には、市が運営しているフリースクールも、自分で頑張ってみたいと始めた運動の習い事も、頑張れるだけ頑張っていました。しかし、タコの糸がプツンと切れるように通えなくなりました。頑張るだけ頑張ったけど、無理なものは無理。ここまで来て、やっと私はその事を受け入れる事ができるようになったように思います。そんな次女がこの前発した言葉。「普通ってなんだろうね。うちって普通なんていないじゃん?」

 その言葉は、私がいつも考えていた事でした。不登校で、退院した後も主治医から「学校に行くのは無理でしょう」とお墨付き(?)をもらって、自主的に児童精神科のデイケアに、通いたい時に通う、フリーランスな状態の長女、そして、中学校に通う事を決意したものの、先行きは全く予測できない次女。この人たちに当てはまる「普通」なんて、この集団になじめと暗黙の了解で圧を掛けられているようなところにはないと思うのです。

 集団が怖いから、ただ、教室に一人の状態で置いて欲しい次女と、入院中に自分の特性について理解ができるようになり、とりあえず外には出かけられるようになった長女。学校の制服を殆ど着ない状態で、登校しないまま卒業になるであろう長女と、いつまで制服に袖を通せるか分からない次女。高いお金出して制服を買った以上は学校に行ってよね、というものの、果たしてその「普通」が正しいのか、ぶっちゃけ、中学に最初から通わせなくてもいいんじゃないか。やっぱり正解は見当たらないので、娘たちには誰かの手を上手に借りる事ができるようになって、母がいなくなっても生活できるようになってくれる事を祈るのみです。

(梓川みいな)