【建物萌の世界】第12回 東京を支えた赤レンガこんにちは、咲村珠樹です。今回の「建物萌の世界」は、東京の市民生活を支えたインフラ関連の建物をご紹介しましょう。

東京都荒川区、都電荒川線の荒川二丁目停留所を降りると、すぐそばにこんな赤レンガの建物がひっそりと建っています。


ここは東京都下水道局の三河島水再生センター。平たく言えば下水処理場です。この建物は「旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設」といい、1914(大正3)年から建設を始め、1922(大正11)年に運用を開始した日本初の近代的下水処理施設。2007(平成19)年、国の重要文化財に指定されています。

都電荒川線の荒川二丁目停留所を降りると、すぐそばにこんな赤レンガの建物がひっそりと建っています

ちなみにこの外壁の赤レンガですが、これは化粧レンガによるもので、実際の建物は鉄骨・鉄筋コンクリート造です。以降も便宜的に「赤レンガ」の呼称を使いますが、その点ご了承ください。

敷地全体図で見ると、この赤レンガの施設の範囲は赤い線で囲まれた部分。他は全部、下水処理の沈殿池や反応槽(バクテリアなどの働きで汚水を浄化させる施設)です。面積使うんですねぇ……ちなみに、この敷地は開設当時からのものだそうです。

三河島水再生センター案内図

今回ご紹介するポンプ場施設は、市街地から流入してくる下水から大きなゴミを取り除き、全体の流量を調整しながら沈殿池などにくみ上げ、送り込む為の施設です。1922年に開設された当初は、下の地図で黄色く塗られた範囲からの下水を処理していました。

1922年に開設された当初は、下の地図で黄色く塗られた範囲からの下水を処理していました

浅草のほぼ全域と、神田川と隅田川、そして現在の山手線に囲まれた上野、秋葉原辺りまで。結構広範囲ですが、驚くべきはこのポンプ場施設、関東大震災や戦争の空襲をくぐり抜け、ずっと休みなく1999(平成11)年まで現役として稼働していたのです。最後の頃は荒川・台東区の全域、文京・豊島区の大部分、千代田・新宿・北区の一部(現在の処理区域)という、更に広範囲からの下水をくみ上げていたんですからすごいですね。東京では、ここが稼働し始めた1922年に近代下水道が供用を開始したのですが、当時の下水管などにもレンガが使われていました。

三河島水再生センターに流入してくる下水本管の実物

上は、この三河島水再生センターに流入してくる下水本管の実物。1999年、赤レンガのポンプ場が業務を停止し、新しいポンプへつながる流入経路へと切り替える際に掘り出されたものです。

浅草で使われていた下水管

上は浅草で使われていた下水管。1985(昭和60)年に地下鉄銀座線の浅草駅改良工事で下水管が干渉した為に、新しい管に交換した際保存されたものです。下水道局の方によると、工事が行われていない一部の場所では、今でも近代下水道が共用開始された大正時代当時のレンガ管が残っているという話も聞きましたが……。飲用になる為に定期的に交換される上水道管と違って、下水の場合は残っているケースがあるんですね。

さて、本題の建物へ向かいましょう。手前にある小さい方の建物は「濾格(ろかく)室」の上屋。ポンプで送り出す際に支障となる、大きなゴミを取り除く設備です。壁などは西洋風の赤レンガでありながら、入母屋の屋根がついてるのが面白いですね。

手前にある小さい方の建物は「濾格(ろかく)室」の上屋

内部の機械がいい感じです。

内部の機械がいい感じです

主ポンプ室に行ってみましょう。両翼が張り出した、小さめのコの字型レイアウトになっています。

外観は縦のラインが印象的な「セセッション」と呼ばれる様式の特徴を示しています

木々に囲まれているので、ちょっと近くからは全体像を見渡せませんが……。外観は縦のラインが印象的な「セセッション」と呼ばれる様式の特徴を示しています。設計したのは東京市(当時)の技師、米元晋一。第5回でご紹介した日本橋の設計者でもあります。彼はこの他にも、当時の浄水場やマンホールなど、上下水道関連のインフラ施設を設計した人でした。ただ四角い窓が並ぶだけでなく、櫛形の窓が挿入されていることで、単調なイメージが薄れていますね。当時最先端だった鉄筋コンクリートの建物でありながら、外装を装飾タイルで覆ったことでクラシックな印象を与えています。

中に入ると、こんな大空間が広がっています。

主ポンプ室の中

内部に柱はありません。屋根裏に露出した、変形キングポストトラス構造の鉄骨が屋根を支えています。これが周囲の壁に屋根の荷重を伝え、機器配置の際に邪魔になる柱をなくしているんですね。通常のキングポストトラスでは、下弦(下の梁となる材)がまっすぐになっている(これは「普通小屋組」といって、木造家屋の屋根にも見られます)んですが、そこをアーチ型にしているので、強度が増すのと同時に優雅な表情を作り出しています。

上から見ると、より一層大空間の迫力が実感できます。

上から見ると、より一層大空間の迫力が実感できます

照明も設置されていますが、明かり取りの窓がズラリと並び、南に面している正面方向には1階部分も大きな窓が並んで、採光には最大限配慮されている為、結構明るい空間です。下に見える白い鉄骨の箱は、1999年に稼働が終了した後、東京都下水道局が歴史遺産として残すことを決定した際に、2002(平成14)年~2003(平成15)年にかけて実施された耐震補強工事で設置したもの。どうやら厳重にやりすぎてしまったようですが……それも「いつまでもこの建物を残したい」という熱意の現れなのかもしれません。

並ぶポンプや、それを駆動する発電機(停電でも下水は流れてくるので処理は止められません)は適宜更新され、現在並んでいるのは最終時に稼働していた、1960年代から1970年代にかけて更新されたもの。それでも30~40年間動き続けた訳ですから、建物だけでなくこれらの機器も「歴史の証人」として一緒に保存したのは大事なことですね。

天井は木造

天井は木造なのも判りますね。壁の表情もなかなかです。ただツルンとした壁とする訳でなく、ちゃんと左官の技としてデザイン処理されているのが、この頃までの建築における特徴と言えるかもしれません。

内部の壁 内部の壁

床はパネル貼りになっており、清潔な印象です。1階部分の窓が大きく、十分な採光になっているのもお判りかと思います。この直線基調の窓デザインも素敵ですね。

床はパネル貼り

真ん中のポンプが並ぶ空間は吹き抜けとなっていますが、両翼部分は上に制御盤が並び、反対側には事務室があります。両翼部分の天井の構成も判りますね。

真ん中のポンプが並ぶ空間は吹き抜け 両翼部分の天井の構成も判りますね

上部にはポンプなどの機器設置に用いられたと思われる6t半クレーンが残されています。大正9年、石川島造船所(現IHI)の銘板が重厚です。

6t半クレーン

壁に取り付けられた緑色のレールに沿って動くしくみです。

緑色のレールに沿って動くしくみ

ポンプでくみ上げた汚水を送り出す裏側は窓が少ない為、並ぶパイプも相まって、より無骨な表情を見せています。

ポンプでくみ上げた汚水を送り出す裏側

建物の周りには、洪水で施設が浸水しないように堤防が築かれています。しかも敷地全体とポンプ室の周囲との二段構え。これは戦後に設置されたということです。

建物の周りには、洪水で施設が浸水しないように堤防が築かれています 建物の周りには、洪水で施設が浸水しないように堤防が築かれています

また、つい見落としがちなのですが、正門横にある門衛所も同時期の建築で、同じく重要文化財に指定されています。直線基調でありながら受付部の曲線が印象的で、ドイツ表現主義的なデザインがかっこいいんですよ。

正門横にある門衛所も同時期の建築

当時としては最先端のデザインで、1910(明治44)年の日本橋建設後、設計者の米元晋一はヨーロッパに留学しているので、その頃ヨーロッパで話題になっていた建築を目の当たりにし、それを吸収してきた成果なのかもしれません。

モダンとクラシックが同居し、トラス構造の鉄骨が美しいこれらの建物群。なにより頼もしいのは、管理する東京都下水道局の皆さんがこの施設に愛着を持ち、ずっと大事に残していくことを口々に語ってくれたことです。愛情と「未来に残したい」という意志が感じられる、ある意味幸せな建物です。

(文・写真:咲村珠樹)