東洋初の地下鉄として開業し、2017年に開業90周年を迎えた東京メトロ銀座線。現在、全面リニューアル工事を各駅で行っています(2021年度完了予定)。このため、ホームの一部が狭くなったり、出入口が一部封鎖されたりという、利用者にとってちょっと不便な状況ですが、その反面、今まで隠れていた「歴史の遺産」が見られる貴重な機会でもあります。銀座駅ホームには、今から74年前の1945年1月27日にあった「東京大空襲」の痕跡が姿を見せています。

 1927年12月30日、浅草~上野の区間で開業した銀座線。上野駅から2kmあまり、徒歩で30分ほどかかる浅草寺への初詣客を輸送することから始まった日本最初の地下鉄路線は、物珍しさもあって乗車待ちの列が長く伸びました。当時実際に乗りに行った筆者の祖母によると、1時間以上待って5分程度の乗車を楽しんだそうです。一種のアトラクション的な感じだったんでしょうね。

開業当時銀座線を走っていた東京地下鉄道1000形電車

 早川徳次が東京地下鉄道の路線として着工したのが、関東大震災後の1925年。なにしろ日本で初めての本格的な地下鉄道だったため、トンネルの構造についての知見が少なく、かなり丈夫に作られたといいます。この時に用いられたのが、H型鋼で丈夫に作った枠を一定間隔で配置してトンネルを支えるという「鉄鋼框(てっこう・かまち)」構造というもの。この鉄鋼框構造をはじめとした銀座線(浅草~新橋)の土木構造物は、2008年に社団法人土木学会から「選奨土木遺産」に、2009年には経済産業省から全線のトンネルや浅草駅4番出入口上屋、銀座駅の早川徳次像のほか、地下鉄博物館に収蔵されている当時の車両や資料群が「近代化産業遺産」に認定されています。

駅で見ることができる銀座線の鉄鋼框構造

 その後少しずつ延伸され、1934年6月19日に新橋までが東京地下鉄道の路線として全線開業。これとは別に、現在の東急電鉄の関連会社として設立された東京高速鉄道が、1938年11月18日に青山六丁目(現在の表参道)~虎ノ門で地下鉄線を開業。その後1939年1月15日に渋谷~新橋の全線が開業し、同年9月1日からは浅草(東京地下鉄道)~渋谷(東京高速鉄道)の相互乗り入れ(直通)運転が始まりました。1941年には、東京の地下鉄を建設・運営するために国と東京都が出資して設立した経営財団「帝都高速度交通営団」に路線が受け継がれ、2004年の民営化(東京地下鉄=東京メトロ)を経て現在に至ります。

 第二次大戦中、東京も連合国軍による空襲を受けました。地中にあるトンネルはある種の「防空壕」となり、ロンドンやベルリンでは、実際に空襲の際、防空壕など避難場所として活用されています。しかし銀座線の場合、地表面からトンネルまでが浅かったため、防空壕として利用されることはありませんでした。

1930年に撮影された東京(画像:アメリカ国立公文書館)


1943年8月時点での東京の建築分析(画像:アメリカ国立公文書館)

 1945年1月27日、アメリカ軍の「エンキンドル(着火)3号作戦」が実施され、B-29の編隊が東京の中心部だけでなく、現在の武蔵野市や八王子市なども含む広範囲を爆撃しました。市街地へのじゅうたん爆撃のほか、アメリカ軍が目標としたのが中島飛行機の武蔵製作所。ここは零戦や隼の「栄(ハ115)」、疾風や紫電(改含む)の「誉(ハ45)」など、日本陸海軍の航空機用エンジンの大部分を生産する工場でした。エンジンの生産が止まれば飛行機の生産ができず、しかも前線も補修用部品がないため稼働率が下がります。ここを叩けば日本の航空戦力は致命的な打撃を受けるため、最重要目標となっていました。

1944年11月7日に撮影された中島飛行機武蔵製作所の空中写真(画像:アメリカ国立公文書館)


1945年1月1日に作られた中島飛行機武蔵製作所の見取り図(画像:アメリカ国立公文書館)


1945年1月12日に作成された中島飛行機武蔵製作所の攻撃計画書その1(画像:アメリカ国立公文書館)


1945年1月12日に作成された中島飛行機武蔵製作所の攻撃計画書その2(画像:アメリカ国立公文書館)


1945年1月12日に作成された中島飛行機武蔵製作所の攻撃計画書その3(画像:アメリカ国立公文書館)

 ところが当日、雲などで視界が悪かったらしく、中島飛行機武蔵製作所を目標に出撃したうちの3分の2となる50機以上が爆撃を果たせず、有楽町・銀座方面に攻撃目標を変更。ちなみに東京駅や築地市場も攻撃目標としてリストアップされていました。市街地を焼き払うのではなく、工場施設を破壊するために出撃したので、この爆撃隊が携行していたのは焼夷弾ではなく、最も効果的とされたAN-M66 2000ポンド(1トン)爆弾やAN-M17 500ポンド爆弾を束ねたAN-M50クラスター爆弾。俗に「銀座空襲」と呼ばれるこの空襲では、有楽町駅に投下された爆弾がホームの階段部を抜け、高架下の改札付近で炸裂。避難していた多くの人々が犠牲になりました。この空襲では539人の死者が出ています。

東京駅も攻撃目標だった(画像:アメリカ国立公文書館)

 銀座線が地下を走る中央通りにも爆弾が落ち、路面には大きな「ろうと穴(爆発で表面の土が吹き飛ばされてできたすり鉢状の穴を当時はこう呼んだ)」ができたといいます。地表からレール面までの深さが9mほどの銀座線トンネルも爆弾炸裂の衝撃を受け、鉄鋼框は大きく損傷しなかったものの、それに挟まれたコンクリート部分がトンネル内部にせり出しました。合わせて水道管も壊れたため、水がトンネル内に流入し、日本橋~新橋の区間が浸水。数日間は浸水区間を運休し、浅草~三越前、新橋~渋谷で折り返し運転を行いました。2月1日に単線で暫定復旧、全線復旧は3月10日までかかっています。

写真真ん中あたりの路上に爆弾が落ちたという

 この空襲によって損傷したトンネルを修復した痕跡が、銀座駅の浅草方面行きホーム、新橋寄り先端部から見ることができます。この部分だけ鉄鋼框の間隔が若干広く、壁面の様子が変わっているので一目で分かります。

化粧板が剥がされたトンネル


 ここには壁面が内側に倒れ込まないよう、複数のH型鋼が横向きに埋め込まれています。柱となる縦の鋼材も同じように数本埋め込まれており、横向きにトンネル壁面を支える鋼材とはボルトで連結。

 横向きに埋め込まれた鋼材には途中を溶接して継いだ跡もあり、物資不足の中、できる限りの手を尽くしたことがうかがえます。当時の鉄道マンたちの気持ちが伝わってきますね。

 東京メトロ銀座線・銀座駅のリニューアル工事は2020年度に完了予定。この空襲の跡は再び化粧パネルの内側に隠れて見えなくなってしまいます。銀座線がくぐり抜けてきた戦争の傷跡を見られるのは、このわずかな期間しかありません。リニューアル工事が終了するその前に、その歴史を見に行ってみませんか。

 なお、この場所はおよそ2~3分おきに電車が発着する駅のホームなので、見学する際は利用者を妨げないような配慮が必要です。また、暗いトンネル内を走る地下鉄のため、フラッシュを使った撮影は電車の運転士の視界を奪い、安全な運行の妨げとなるので決して行わないでください(記事中の写真はすべてフラッシュを使用せず撮影しています)。銀座線はレールのすぐ横に、電源となる直流600ボルトの高圧電流が流れるレールがあるため、ホームの下は大変危険です。ホームドアから身を乗り出さないよう、駅係員の注意や指示に従ってください。

アメリカ軍爆撃資料:アメリカ国立公文書館

(咲村珠樹)