突然ですが皆さんは、自分の死について考えた事はありますか?また、家族の死について考えた事はありますか?
看護師でもある筆者は病棟勤務時代、何人かの死を看取ってきました。その最期のお別れは家族により様々。私自身も最期を看取る事で色々考える事も多くありました。
そんな経験もあり、つい先日話題になったある医師のツイートが目に留まりました。現実というのは、直面する度に難しく感じられるものです。

インヴェスドクターさん(@Invesdoctor)の 「『先月まで歩いていたんですよ!病院にいるのになぜどんどん衰弱していくんですか!手術とか何か方法があるでしょう!』という1時間におよぶ患者家族からの厳しい問答が終わった。なお、患者は90歳代の終末期肺がんである。医師を目指す若者たちよ、これが今の医療だ。」というツイートは、そんな筆者の病棟勤務時代を思い起こす内容でした。

■死を目の前にした人とその家族と

先述のツイートの中に出てくる患者さんは90歳代、肺がんの末期状態。終末期であるという事は痛みや呼吸苦を上手く取り除きながら命が尽きるのを見守る、という状態。ですが、患者さんの家族はそれをどうやら受け入れることができないみたいです。
家族だから、いつも見ていたから、という強い先入観や、肉親だからこそ生じる死、喪失に対する強い拒否感が冷静な判断を下せなくする事は、実はかなり多くみられます。

■病棟時代の経験から

筆者は呼吸器内科にも勤務していた事があります。肺がん、喘息、慢性閉塞性肺疾患(COPD)による呼吸障害の方などを看てきました。その中で忘れられない患者さんがいました。

彼は70歳代、冷静で常に前向き、治療にも医師とよく話し合いながら向き合っている知的な人でした。しかし、抗がん剤や放射線治療の甲斐もむなしく彼の肺はがんに侵され続けていました。そしてある日、耐え難い息の苦しさから医師と相談して選んだ選択は……麻酔で眠っている状態にして最期を遂げる、という手段でした。

医学的にいう、「セデーション」という手段です。これは本当に最終手段で、この方法以外に耐えがたい苦痛を取り除くことができない時だけ、この方法を使う事があります。その患者さんはそのセデーションを選択したのです。
もちろん、その選択に至るまで院内でもかなり議論を重ねました。そして家族にも何度も何度も面接を繰り返し、患者さん本人の希望を受け入れることにしたのです。セデーションを行う日、彼は最後のお別れを家族と病棟スタッフにしました。その3日後、彼は旅立っていきました。

■病院=命を救うだけの場所ではない

入院すると、回復して退院するのが当然、という様な風潮を未だに感じます。しかし、病院に入院したから必ず救われるというものではないのです。90歳代でも症状によっては手術をする場合もあります。しかしそれは手術によって患者さん本人が現状よりもよりよい状態に回復できる見込みがある場合のみに限られます。転んで骨折し、手術によって転ぶ前に近い状態まで回復できるなどの場合です。

肺がんの末期ではとても手術どころではありませんが、先のツイートの患者さんの家族は「手術とか何か方法があるでしょ」という言葉を発しています。

家族だから、「高齢で末期の肺がんで死期が近い事」を受け入れられない感情がそうさせているのでしょう。第三者の目で見たら誰でも無理なことを言っている、と思うことですが、理性はしばしば感情に崩されるものなのです。
いかに家族がその現実を受け入れる事ができるか、命を救うだけが病院の役目ではない事を理解してもらえるか……病院で働いていると必ず直面する問題です。

食事が摂れない回復が見込めそうにない人に栄養を入れるための「胃ろう」を造るかどうかという問題も同じところに通じています。はたしてその処置が患者さん「自身」のために本当になるのかどうか……。

感情だけが先にたち、思考停止している家族に現実と上手く向き合ってもらうのは至難の業なのです。そこを上手くコーディネートするのが医療者の本質なのではないかと、医療の端くれの筆者は思うのです。

もし自分の親やパートナー、子どもが死に直面したら……やはり、筆者自身も冷静でいられる自信はありません。大事に思っているからこそ、感情が目を曇らせるのです。

命が尽きるまで、最期まで、患者さんその人らしく生を全うできる手助けを行うのもまた医療の役割のひとつなのです。その為にも患者さんの家族への手助けも、また非常に重要なのです。いい「最期」となれるお手伝いを家族として考えられるように、病院や医療者との信頼関係を大切にして欲しいと願っています。

<記事化協力>
インヴェスドクターさん(@Invesdoctor)

(看護師ライター・梓川みいな)