世界遺産級!? 東洋一のアール・デコ建築こんにちは。様々な建物や街並に萌える「建物萌の世界」、今回は都内で最も好きと言っていい建物へとご案内しましょう。

目黒駅から徒歩数分。白金の外れにあるのが旧朝香宮邸、東京都庭園美術館です。1933(昭和8)年、朝香宮鳩彦(やすひこ)王の邸宅として建てられました。朝香宮鳩彦王は、久邇宮(くにのみや)朝彦親王の第8王子で、香淳皇后の叔父に当たります。


この建物の素晴らしいところ、それは当時流行していた美術様式「アール・デコ」を本格的かつ大々的に採用している、ということ。内装はフランスに於ける装飾美術の第一人者、アンリ・ラパンに依頼されています。建物自体の設計は宮内省内匠(たくみ)寮、施工は戸田組(現在の戸田建設)が手がけました。

東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)正面全景

建物の外見は、例えばアメリカ・ニューヨークのクライスラービルやフロリダ州に多く見られるようなアメリカン・アールデコ建築(東京ディズニーリゾートの「ディズニーアンバサダーホテル」は、それをモチーフにしたもの)とは違い、いかにもアール・デコ的といった幾何学的な装飾に満ちたものではなく、むしろあまり装飾性を感じません。この辺りはむしろ、ル・コルビュジェやバウハウスに集った建築家の、無駄な装飾を排したモダニズム建築的なデザインです。1930年代は、特にヨーロッパでアール・デコとモダニズムの建築が徐々に入れ替わっていく過渡期になっていますから、そうした部分が反映されているのかもしれません。

この外観も好みなのですが、何といってもこの建物の魅力は内装にあります。車寄せのポーチから、玄関ホールに入ったとたん、いきなり圧倒されるのです。

玄関ホール・ラリック作のガラス扉 玄関ホールの大理石モザイク床

玄関の正面内扉は、ルネ・ラリックによる大きな(高さ2.5メートル)ガラスレリーフ作品です。アール・デコ期以降、ガラス工芸家として知られるラリックの作品でも、これは最大級のもの。扉ですから開け閉めできる訳ですが、朝香宮ご一家もさすがにもったいなかったのか、この扉を開くのは特別な来客などの機会のみで、普段は正面右手にある扉(現在の美術館入り口)を使って出入りしたそうです。

ガラスレリーフは光を透過して美しく輝く

向かって一番右側の女性レリーフ部分にヒビが入っているのですが、これがいつ破損したのか、そして何故破損したのかについては諸説あり、はっきりしていません。しかし個人的には、このヒビが余計にリアルさというか、歴史を感じさせる部分ですね。ラリックは壁面装飾にこのようなガラスレリーフ作品を用いたのですが、日本で見られるのはここと、箱根のラリック美術館にあるオリエント急行のサロンカー(元プルマンカー「コートダジュール」No.4158)くらい。あちらは車内でお茶ができるのも魅力ですが……。

玄関を入って広がるのは大広間。ウォールナット合板の壁に、レオン・ブランショ作の大理石レリーフがはめ込まれています。奥にはイタリア産の大理石で作られたマントルピースが。モダンながらあたたかい空間です。

ラパンデザインの大広間

この大広間の隣に位置する次室(つぎのま)には、この建物のシンボルとも言える調度品が鎮座しています。美術館で販売している絵はがきでも、ラリックの玄関ガラスレリーフと並んで高い人気を誇る、通称「香水塔」と呼ばれる白い焼き物です。

セーブル陶器の「香水塔」

アンリ・ラパンによるデザインで、フランスの国立セーブル陶磁器製作所で作られました。頭頂部に照明が仕込んであり、本来はその下の部分から水を出し、外面を伝って流れ落ちる……という一種の噴水のようなインテリアを意図したものだったようですが、宮家では照明の入った頭頂部に香水を垂らし、照明の熱で蒸散させることで香りを周囲に漂わせる、という使い方をしていたそうです。なので通称「香水塔」なのですね。ラパン自身は特に命名をしていなかったらしく、セーブル陶磁器製作所に残された注文票には「ラパンの輝ける白い器」と表記されているとか。宮内庁に残されている『朝香宮邸新築工事録』には、機能面から「噴水塔」と記されています。

そして、この建物のアール・デコが最も現れている部屋が、大広間から入っていく大客室と大食堂です。

ラリックのシャンデリアが下がる大客室 大食堂はアール・デコの結晶のような内装 ブランショ、ラリック、ラパンの作品が大食堂を飾る

ラリックの照明器具、ラパンの壁画、そして扉にはレイモン・シューブの鉄装飾とマックス・アングランのエッチングガラス装飾が施されています。大食堂の壁面には、レオン・ブランショによる植物モチーフのレリーフがはめ込まれ、マントルピース上にはラパンの壁画と、壮麗な装飾に満ちあふれた空間。思わずうっとりしてしまいます。アール・デコ大好きな人間としては、まさに「萌え」な空間。本場のデザイナーの手による本格的アール・デコ装飾が施された建築は、欧米を除けばここだけという貴重なものです。

シューブの鉄装飾とアングランのエッチングガラス

さてここで、こんな素晴らしいアール・デコの館が誕生したいきさつについて、軽くご紹介しましょう。話は1922(大正11)年にさかのぼります。当時陸軍大学校に勤務していた朝香宮鳩彦王は、軍事研究の為にフランスへと留学することになりました。留学中の1923(大正12)年、同じく欧州留学中で、同じ高輪南町御料地(現在の品川駅前、高輪プリンスホテルや京急EXイン品川などの敷地)に居を構える義兄、北白川宮夫妻とドーヴィル(避暑地として有名)へとヴォワザン社(初期の航空機メーカーとしても知られる)の車でドライブ中、パリ郊外で自動車事故に遭ってしまいます。運転していた北白川宮成久王はこの事故で薨去(即死)、同乗の北白川宮房子妃と朝香宮両殿下は重傷を負いました。その看病の為、朝香宮允子(のぶこ)妃殿下は渡仏、療養の為、長期滞在を余儀なくされます。

退院後、リハビリを兼ねた療養の為、朝香宮御夫妻はパリのアパルトマンを借り上げ、そこに生活の場を移します。当時ヨーロッパ・日本間は、船で一ヶ月以上かかる長旅でしたから、途中で体調を崩して亡くなるケースもありました。長旅に耐えるだけの体力をつけ、また軍人として再び活動できるよう、運動機能の回復も必要とされた訳です。……といっても、入院中に較べて允子妃殿下の負担は減りました。これを機に、以前から美術に造詣が深く、日本では日本画なども習っていた允子妃殿下は、彫刻家・画家のレオン・ブランショに絵画を習うようになります。回復してきた朝香宮殿下も、リハビリを兼ねて周囲を歩くようになり、夫妻連れ立って美術館などに行ったりもしていたようで、当時のパリを中心としたヨーロッパ文化を積極的に吸収していたようですね。

パリ滞在中の1925(大正14)年、パリのセーヌ川沿いで現代装飾美術・産業美術国際博覧会(通称「アール・デコ博」)が開かれます。朝香宮御夫妻もこの博覧会を視察しました。残された記録フィルムによると、特に允子妃殿下が積極的に会場を回り、様々な質問をしている様子が映っており、アール・デコに大変感銘を受けたようです。

同年帰国した朝香宮ご夫妻でしたが、高輪南町の御料地に仮住まいしていた邸宅が関東大震災で被災しており、仮復旧はしたものの建て替えの話が持ち上がります。この時期、他の宮家も相次いで建て替えられており、関東大震災が皇族の邸宅に与えた影響をうかがい知ることができますね。1917(大正6)年に白金御料地となった旧海軍・陸軍の火薬庫跡(元高松藩下屋敷)に新居を建設することになりました。1929(昭和4)年のことです。

今までは仮住まいでしたから、初めて本当の意味での「自分達の家」を持つことになった朝香宮ご夫妻。我々でも家を建てるとなったら「どんな家にしようか」と色々理想の家に思いを馳せますから、恐らくご夫妻も同様だったのではないでしょうか。お二人はパリ時代に感銘を受けた、アール・デコをデザインの基本とすることを決め、主要部分のインテリアデザインを、アール・デコ博のテーマ館などをデザイン監修したアンリ・ラパン(装飾美術家協会副会長)に依頼しました。允子妃殿下が絵を習っていたレオン・ブランショとアンリ・ラパンは、アトリエが隣接していて親しく交際していたこともあり、どうやらブランショがラパンへの橋渡しをしたようですね。

ラリックによる殿下書斎の机は向きを360度自在に回転できる

ところで、ラパンが内装を担当したのはこれら来客を迎えるパブリックスペースと、殿下の書斎や居間など7部屋にとどまっています。しかもラパンは都合により来日せず、デザインや施工に際しては、手紙や図面でのやりとりでしかできませんでした。建物全体の設計や、他の部分の内装を担当したのは宮内省内匠寮。特に1925年当時、欧州視察に出ていてアール・デコ博の見学もしていた技師、権藤要吉が主導的な役割を果たしました。現在のようにネットやファックス、電話などですぐ連絡を取れる時代ならいざ知らず、国際郵便(船便で40~50日)でコミュニケーションを取るのは大変だったでしょうね。ラパンが内装をデザインした殿下居間の付柱は、フランスから部材が届いた際に寸法が足らず(恐らく図面の寸法に、単位など間違いがあったんでしょう)、急遽宮内省側で柱頭飾りをデザインして取り付けたそうですが、違和感なく収まっています。

寸足らずの付柱に急遽取り付けられた柱頭飾り

この「合作」にとどまらず、その他の部屋を見ても見事な内装デザインで、宮内省内匠寮がアール・デコを巧みに消化して、我がものとしているのがうかがえます。この大正末から昭和初期の期間に限っても、従来の日本建築に加えて、迎賓館(旧東宮御所)などの西洋建築やこのアール・デコ建築と様々なデザインの建築を手がけ、内匠寮が素晴らしい能力を持った建築家集団であることがよく判りますね。

階段を上った2階小広間は家族団らんのスペース

大広間から階段を上ったところにある2階広間は、家族団らんのスペースとして使われていたようです。印象的な照明塔の基部には穴が空いており、花が生けられるようになっていました。若宮寝室は大きな窓が半円形に配置してあり、開放的な印象。ラジエータ(暖房器具)のカバーには魚の意匠が使われており、ちょっとユーモラスな印象です。

大きな窓が印象的な若宮寝室 「GOSICK」のヴィクトリカや「ダンタリアンの書架」のダリアンが似合いそうな雰囲気の書庫

妃殿下や姫宮のお部屋(寝室・居間)は、ラジエータカバーを妃殿下自らデザインし、壁紙なども妃殿下・姫宮で相談しながら決めたというエピソードが残されています。美術の才能があり、この邸宅の建設においても非常に積極的だった妃殿下の思いが垣間見える部屋となっています。

妃殿下寝室のラジエータカバーは妃殿下ご自身のデザイン

これほど熱心に取り組んでいた允子妃殿下でしたが、病に倒れてしまい、竣工半年後の1933(昭和8)年11月に42歳の若さで薨去されてしまいます。新居での日々を長く過ごせなかったこともそうですが、まだ子供たちも小さかったので、さぞや心残りだったかと思いますね。

姫宮寝室より姫宮居間を望む

最上階となる3階には、いわゆるサンルームとなるウィンターガーデンがあります。床面は白と黒の大理石をチェス盤のように配置したモダンなもの。ここにはバウハウスのデザイナーとして知られるマルセル・ブロイヤーによる家具が置かれていて、冬の避寒や、ランなど植物の栽培を行っていたそうです。

ブロイヤーの家具が置かれるモダンなウィンターガーデン

現在置かれているのは、残された写真をもとに新たに調達した同デザインの製品。アール・デコの館にバウハウス? という印象もありますが、この当時、バウハウスの展覧会が東京の上野松坂屋で開かれ、この展覧会に朝香宮殿下が来場したという記録がありますから、ウィンターガーデンのモダンな空間には、シンプルな機能美を見せるバウハウスの家具の方が似合うと考えたのでしょう。

洋室ばかりが目立つ建物ですが、少ないながら和室もありました。1階部分では、大客室の向かいにある喫煙室や、大食堂の奥にある小食堂など。喫煙室は戦後の改装によって内装が失われてしまいましたが、小食堂に関しては和風の内装を今も見ることができます。

和室である小食堂の内装

また、内装に気を取られて見落としがちなのですが、池のある中庭もなかなか面白いデザインです。水辺にはアヒルの像があって、かわいらしいんですよ。

中庭の池にはアヒルの像が

さて、この建物でとても魅力的な部分。それは各所にある工夫を凝らされた照明の数々です。大客室を飾るラリックのシャンデリア「ブカレスト」や、大食堂の「ザクロとパイナップル」だけでなく、宮内省内匠寮の技師がデザインした照明もまた、素晴らしいものです。

大客室のラリック作「ブカレスト」 2階階段室の星をかたどったステンドグラス照明
若宮居間、ステンドグラスの照明 妃殿下寝室の照明は上下に移動する

芝生の庭園に出てみると、正面側とはまた違った印象の外観を見ることができます。

庭から見た建物外観

大客室の外側は列柱の回廊のような感じ。その上はサンルームを兼ねたベランダになっており、ここを通って殿下と妃殿下の部屋とを行き来することができます。弧を描く大食堂の外壁上部には、外観としては数少ない装飾的要素が見られます。この庭園では、かつてはクジャクが飼われていたとか。歩を進めれば、奥には回遊式の日本庭園が。ここには1938(昭和13)年に建てられた茶室「光華」があります。

茶室「光華」

設計は武者小路千家の茶人、木津宗泉と中川砂村の原案により、宮内省内匠寮庭園課が実施設計を行いました。施工は数寄屋建築の棟梁、平田雅哉です。平田は戦後「吉兆」や「なだ万」といった高級料亭や、兵庫・城崎温泉の「新かめや」「西村屋本館」、熱海の「大観荘」といった旅館なども手がけています。いわば近現代における数寄屋大工の第一人者。

「光華」は戦前の茶室としては珍しく、広い椅子席がある

「光華」の特筆すべき点といえば、戦前の茶室としては珍しく、椅子席があること。いわゆる「立礼」の席ということになりますが、これは外国からの賓客を招くことの多い事情を勘案して、慣れない正座より椅子席で茶席を催せるように……という配慮から設計されたもの。立礼席は、1872(明治5)年の京都博覧会に際し、外国からの客人をもてなす為に裏千家の11世家元(玄々斎)が考案したものですが、一般には戦後に普及した形式です。この立礼席の上には、朝香宮殿下揮毫による「光華」の扁額が掲げられています。

この庭園には、戦時中、築山を利用して防空壕も作られました。道路(首都高速2号目黒線・都道418号支線)を挟んだ敷地には海軍大学校(現・UR都市機構シティーコート目黒)があり、空襲の目標にされそうな立地でしたが、幸い空襲被害からは免れたようです。現在も防空壕の入り口が残されていますが、当然ながら中を見ることはできません。

庭に残る防空壕の入り口

戦後、朝香宮家は皇籍離脱して朝香家となり、別邸としていた熱海に移り住みます。主を失った邸宅は、外務大臣(後に総理大臣も兼務)の吉田茂が1947(昭和22)年から1954(昭和29)年まで大臣公邸として使用しました。この間の1950(昭和25)年に、土地と建物は西武鉄道の堤康次郎に払い下げられ、吉田が退去した後は西武グループの迎賓館として民間外交の舞台となり、1974(昭和49)年まで国賓・公賓が利用しています。この後、西武鉄道は建物を取り壊し、この場所にプリンスホテルを建設する計画を発表しますが、美しい朝香宮邸を守ってくれと周辺住民らが反対運動を繰り広げ、計画は中止されます。

朝香宮、後の朝香鳩彦は1981(昭和56)年4月に93歳で死去しますが、この頃、かつて朝香宮家に出仕していた男性が、ぜひ宮様の邸宅を東京都が買い取って、保存して欲しいという陳情の手紙を出しました。経過は省きますが、結果として同年12月、東京都は西武鉄道とプリンス迎賓館(旧朝香宮邸)の土地売買における譲渡契約を締結します。約2年の改装・修復工事を経て、1983(昭和58)年10月、現在の東京都庭園美術館として一般公開されるようになったのでした。1993(平成5)年には、東京都の有形文化財に指定されています。

ところで、ここまでご紹介してきた旧朝香宮邸ですが、現在は戦後に建てられた別館の建て替えを中心とした改装・修復工事の為に長期休館中です。リニューアルオープンは2014(平成26)年の予定。あと2年はその姿を拝めませんが、休館前に公開されていたのは全体の半分程度だったので、リニューアルオープンした際には、公開部分が増えていたらいいなぁ……なんて思っています。公開されていないのは主に宮邸時代の事務室部分なんですが、その辺りも見てみたいのが「建物萌(たてもえ)」の性。期待を込めて、その時を待ちたいものですね。

2014年のリニューアルオープンが待ち遠しい!

(文・写真:咲村珠樹)